広瀬達之の写真を手に、功績を振り返る妻の智子(左)と姉の白石千鶴子=氷見市小杉で |
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産地偽装防止に奔走
氷見市のブランド魚「ひみ寒ぶり」の出荷開始宣言時は、毎年氷見魚市場が活気づく。「ひみ寒ぶり」は商標をあしらった専用の青い箱に入れられ、管理番号を記した販売証明書を付けて出荷される。当時氷見漁協参事だった広瀬達之は、この「ひみ寒ぶり」制度の構築に尽力した。(小寺香菜子)
広瀬は灘浦漁協の定置網漁師の末っ子として生まれた。金沢市の水産会社から一九七七年に藪田漁協に入り、八八年に合併で氷見漁協に。姉の白石千鶴子(72)は「漁師をしていた家だから、父親の様子も見てきとるし、漁業に興味があったのだと思う」と話す。総務部長などを経て、二〇〇九年に参事となった。
一〇年十二月、氷見の水産卸売業者が、福井産の寒ブリを氷見産と偽る産地偽装が発覚した。当時の様子を妻の智子(64)は「ぴりぴりしていた」と振り返り、以前にも増して忙しそうだったという。広瀬は氷見漁協の参事として、「氷見魚ブランド対策協議会」の中で再発防止策をまとめた。
特許庁に図形付き商標登録を申請。登録された文字とロゴを出荷箱に印刷し、管理番号を記した販売証明書を付け、市場に出回る箱の数を漁協が一括管理することになった。市場に出回る数を正確に記録するために、出荷シーズンの始まりと終わりも明確にした。氷見漁協組合長の森本太郎(70)は「このようなことを二度と起こさないためにせざるを得ない状況だった」と話す。一一年十一月に、初めて氷見産ブリが「ひみ寒ぶり」の名で出荷された。
広瀬は一四年十月に膵臓(すいぞう)がんが見つかり、余命宣告を受けた。延命治療をせず、一五年三月まで毎朝漁港に通った。白石は「パニックにならんと行っとった。すごいわ」と話す。同年五月に入院しても「今日なんおった(なにがいたか)」と漁協に水揚げを尋ねる電話をかけ、漁港の様子を気に掛けていた。智子は「漁業関係の人が見舞いに訪れ、これからこうしていかんなんと話していた」と振り返った。
海外にも販路を広げた一四年一月、広瀬は「ひみ寒ぶりのブランドは一朝一夕にできたわけではない。品質は世界に通用するはずだ」と話し、ブランド化の苦労と、誇りをにじませた。 =敬称略
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ひろせ・たつゆき 1953(昭和28)年生まれ。氷見市小杉出身。高岡第一高校、東海大海洋学部を卒業。金沢市の水産会社から77年に藪田漁協に入る。88年に合併後、氷見漁協では金融課長、総務課長、総務部長を経て、2009年から参事。15年7月に62歳で死去。
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March 08, 2020 at 03:11AM
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【わがまちの偉人】ひみ寒ぶり ブランド構築に力 広瀬 達之(1953~2015年) - 中日新聞
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